“亀と山P”なのに暗すぎるドラマ「野ブタ。」が2020年にウケるのはなぜか

2020年5月16日

文春オンライン

 世界が殺伐とし始めた2020年4月のはじめ、その知らせは届いた。2005年のドラマ『野ブタ。をプロデュース』(以下、『野ブタ。』)が15年前と同じ土曜の夜に再放送されるという奇跡が起きている。

 “ジャニーズ”と“木皿泉脚本”は人生の2大指針にしてきたものなので、もちろん嬉しい。ただ、15年ぶりに見て感じたのは「こんなに暗かったっけ……?」という率直な感想だった。もう少しポップな学園ドラマのイメージで記憶していたので、15年ぶりの放送を見て、少し面食らったのだ。

 しかし、SNSのトレンドで話題となり、高視聴率も記録。『野ブタ。』は、2020年のいまに放送されても、多くの視聴者の心を捉えている。そして、何より初めて見た10代だけでなく“大人”により深く響いている気がする。

 こんなにも暗いドラマが今、深く私たちのもとに入り込んでくるのはなぜなのか。その理由を考えてみたい。

主題歌『青春アミーゴ』がドラマの暗さを隠していた
 それにしても、なぜ15年のうちに、こんなにも違ったイメージが頭の中に刷り込まれていたのだろう。

 亀梨和也・山下智久というジャニーズ屈指の人気アイドルの出演や、このドラマをきっかけにブレイクした堀北真希や戸田恵梨香によるその後の華々しい活躍、「野ブタパワー注入!」というそこだけ切り取ると明るくも感じる決め台詞の影響もあるだろう。

 だがおそらく、一番の原因は亀梨和也と山下智久が役名の「修二と彰」として歌ったドラマ主題歌『青春アミーゴ』である。

 発売4週目でミリオンを突破し、2005年の年間オリコンランキング1位、なんと翌年2006年の年間ランキングでも3位に入り、累計出荷枚数は200万枚を突破した異例の大ヒット。10代の次に買っていたのは40代だったという世代を越えた人気ぶりで、実世界では盛り上がるときにこそ歌われてきた。この15年、ドラマよりも触れる回数が多かった『青春アミーゴ』が、ドラマ自体がまとっていた一種の暗さに蓋をしていたのかもしれない。

 しかし、その歌詞を見てみると、サビの「2人でひとつだった」は“今では一緒にいない”ことを暗示していて、そう明るくないことがわかる。

学校という“小さな社会”を描き出したドラマだった

『野ブタ。』は、転校するなりいじめられ始めた信子(堀北真希)を修二(亀梨和也)と彰(山下智久)がクラスの人気者にプロデュースしていく話である。男性が女性をプロデュースする……という作品の骨子だけ聞くと、ファッションやメイクなどで容姿を改造したり、自分より美しいライバルを倒したりする痛快な話のようにも聞こえるが『野ブタ。』は違う。そのセリフや描写には、常に寂しさがつきまとうのだ。

 ポップな名台詞のように聞こえる「野ブタパワー注入!」でさえ、明るいとは言い難い。そもそも最初は、いじめっ子に対峙する直前に怯みそうになった信子がひとりで行う儀式であり、むしろ悲しさが漂う。 

『野ブタ。』の脚本を担当した木皿泉は、脚本執筆中を「泣けて泣けてしかたがなかった」と振り返る。

「教室にいる子どもたちはみんな寂しいなあと思えてきて」「殺伐とした場所に、みんな背負いきれないものを背負いながら、友達はいっぱいいても信じることができる人は少なくて、必死に立っているんだなぁと思ったら、泣けました」(『木皿食堂』より)

 2005年放送当時19歳で山下智久と同じ1985年生まれだった筆者は、このドラマに描かれているイジメをリアルさをもって見つめていた。だが、30代も半ばに差しかかった今、このドラマに暗さを感じる理由は「イジメがリアルだから」といった単純なものだけではない。おそらく、「主人公たちが生き抜く学校という“小さな社会”が、大人の社会と何ら変わらない息苦しさをまとっている」ということがより実感できるからではないかと思う。

 そう、『野ブタ。』は学園モノではあるが、社会の話なのである。

 主人公・修二の視点でいうと、第6話までの『野ブタ。』は、「コミュニケーション能力を駆使して、スクールカースト制度の中をうまく生き抜く話」でもある。登場人物たちが生き抜くのは学校という社会だ。そこには大人の社会のように序列も存在する。スクールカーストという言葉はなかった2005年に、木皿泉の想像力をもって紡ぎ出された登場人物やセリフはリアルで、“確実に存在していたけれど、言葉にはされていなかったもの”を確かに描いてくれていた。

恋愛ですらコントロールを必要とする世界観

 そして、学園ドラマで重要になってくる「恋愛」というテーマにおいても、『野ブタ。』はとことん”学校という社会“を描いている。

 第7話で、恋人のまり子(戸田恵梨香)に「本当に(私たち)付き合っているの?」と問われた修二はこう答えている。

「俺さ、今まで人を好きになったことがなくて。だから、まり子のこと、好きだって思ったことがないんだ。なんか恋愛みたいに、自分をコントロールできなくなるのが苦手っていうか……そういうのが嫌いで。だけど、周りの奴らには恋人がいるんだーって風に思われたくて、それで、まり子と一緒に弁当を食べたりしてた」

 木皿泉が描いた『野ブタ。』という世界に生きる高校生たちは、恋愛一つとっても純粋に「好き」という感情だけで描写されない。まり子はスクールカースト最上位の美少女で、恋愛をするのにも他者の目という“社会”を配慮していることが窺え、それもまた寂しい。

 さらに、同じ木皿泉脚本で、学園ドラマであり、ややファンタジー要素が強かった『Q10』(佐藤健演じる高校生のもとに前田敦子演じるロボットがやってきたというストーリー)と、“男性主人公がヒロインを抱き締めるシーン”を比べてみると、その違いがはっきりしてくる。

「俺はいま、宇宙の4%を抱きしめている」(『Q10』第4話より)
「野ブタに抱きしめられて、初めてわかった。オレは、寂しい人間だ」(『野ブタ。』第7話より)

『Q10』の2人は宇宙の中で恋をしているが、『野ブタ。』の2人は社会の中で恋をしている。そして、『Q10』の恋は純愛と言っていい類だが、『野ブタ。』の恋は、実社会の大人の恋にも近いのだ。

 ちなみに7話のこの抱きしめ合うときのセリフは、「子どもにはわからないから」という理由で最初はNGが出たのを、木皿泉が押し通したのだという。(『ダ・ヴィンチ』2019年10月号)

周囲が見えすぎているがゆえに苦しむ主人公

 ここまで読み解いてみて、やはり『野ブタ。』の暗さを象徴しているのは異色ともいえる“桐谷修二”というキャラクター像にあると言える。第1話の冒頭、モノローグという形で、主人公の修二のスタンスが示される。

「この世の全てはゲームだ。っていうか、そう思わないとやってられないことばっかりだ」「マジになったほうが負け」「うまく立ち回っていいポジションを維持してれば傷つくことなくゴールまでいける」

 そして1話のラストは、同じくモノローグでこう終わる。

「このときの俺はまるでわかってなかった。この先、俺達は途方もなく暗くて深い、人の悪意というものと戦わなければならないということに」

 主題歌としてこの世界に初めて『青春アミーゴ』が流れたのは、こんな暗すぎるセリフの直後だったのだ。

 多くの企業が“選考時に重視する要素”として“コミュニケーション能力”をあげはじめるようになったこの頃(2004年、経団連による「新卒採用に関するアンケート調査」では、コミュニケーション能力がその他を抑えて1位になった)、修二はコミュニケーション能力に長けた高校生として描かれている。そして、“うまく立ち回りながら心の中では違うことを考えている修二”をわかりやすくするために、劇中では暗い光があてられる演出がなされる。

 文武両道でなんでもできる人気者。このままいけば就職活動もうまくいき、一流総合商社にでも入社できそうな修二だが、空虚さも感じている。弟には「俺みたいになるなよ」と言い、その理由を「要領ばっかよくて、何も創れない大人になるな、ってこと」と加える。そして同じ3話のラストはこんなモノローグで終わる。

「俺は不安だった。何もない自分がものすごく不安だった」

 ただコミュニケーション能力が高いというだけではなく、周囲が見えすぎているがゆえに、自分がそれだけの人間であるということに気づいてしまっている。だからこそ、不安や寂しさが生まれる。

修二というキャラクターは「亀梨和也が演じたからこそ」生まれた

 この作品が連続ドラマ2作目であり、初めてアイドルにあてて書くこととなった木皿泉は、この修二像を亀梨和也が引き出してくれた、と語っている。

「描いているうちに、人の寂しさがテーマになっていったのは、修二役の亀梨さんが引き出してくれたから」(『ダ・ヴィンチ』2019年10月号)

 そして、「亀梨さんをすごいなと思うのは、スターなのに顔を消すことができるところ。(中略)スターなのに、演じるときは亀梨和也が消えている」と加え、それに対して亀梨は「自分がスターだとは思いませんが、いちばん努力している部分」と語っている(同書)。拙著『ジャニーズは努力が9割』の亀梨和也の項目でも触れたが、亀梨は山下智久や赤西仁のスター性に直面し、自ら“かっこよさを作っていった男”である。そして作ったものは、生まれ持ったものではないがゆえに、あえて隠すこともできる。

 2005年当時のKAT-TUNがよく歌っていた『ハルカナ約束』という曲にこんな歌詞がある。

「仮面をつけた大人が 同じ服で歩いてる 君の夢がそこに消えないように」

 亀梨和也はスターという仮面を、修二は大人という仮面をつけたり外したりすることができる人物なのである。だからこそ、修二というキャラクターは亀梨和也が演じたからこそ生まれたのかもしれない。

修二を揺さぶり続けた野ブタと彰が教えてくれたこと

 この「大人という仮面」のキーワードは、主人公・修二を揺さぶり続けた野ブタ(信子)にも共通する。

 第1話で、願えば何でも叶う猿の手を拾った野ブタは、最初に「バンドー(いじめっ子)を消して」と願うがすぐに取り消して「私はバンドーのいる世界で生きてゆきます」と誓う。さらに第5話では、モテるためのプロデュースをされそうになるが、それを断る。“モテる女子”の仮面をつけることを拒否するのだ。

 社会に自分を適応させるのが得意な修二に対し、野ブタは自分をあえて変えずに、自分の生きやすい世界にするために、他者を変えていく。それは昨今、誰もが憧れる「ありのままで生きていく」ということであり、一方で“自分のままでいる”と子どもじみても聞こえる。

 しかし、自分を社会に適応させすぎた果てに待っているのは、夢が消えてしまった、「仮面をつけたつまらない大人」である。もし、信子と彰に出会わず、あのまま外面をよくし続けて生きていたら、修二の先にあった未来は“かっこいい大人”ではないだろう。つけていたつもりの仮面は、いつしか外れなくなって、スーツという“同じ服”を着て、夢を失って歩いていたかもしれない。

 このドラマの2年後、彰を演じた山下智久は所属していたNEWSの『weeeek』という曲で「外面よくして35歳を過ぎた頃 俺たちどんな顔? かっこいい大人になれてるの」と歌っている。そして奇しくも今年の4月、山下智久は35歳を迎えた。

「遅すぎることなんて無いのよ。私達は何でもできるんだから」

 当時10代で『野ブタ。』を見ながら学校という小さな社会に生きていた僕たちは、そのまま仮面を外せず、“かっこいい大人”にはなれなかったのかもしれない。そして、あれから15年が経って大人になった今、そのままの構造をただ拡大したかのような社会に生きている。

 それは、2020年の今『野ブタ。』が依然として広く受け入れられていることの裏返しなのかもしれない。僕たちはあのとき、『野ブタ。』から学びきれていなかったのだろうか。

 でも、木皿泉はドラマ『すいか』でこう書いている。

「遅すぎることなんて無いのよ。私達は何でもできるんだから」

(霜田 明寛)