さようなら、原宿旧駅舎=戦火乗り越え、96年の歴史に幕―24日解体開始・JR東

2020年8月22日

時事通信社

 「若者の聖地」東京・原宿のシンボルとして親しまれたJR山手線の原宿旧駅舎。

 大正末期に建てられた都内最古の木造駅舎は、戦火を乗り越え、今年3月に「引退」するまで時代の移り変わりや人々の行き交いを見詰め続けてきた。24日から解体工事が始まり、96年の歴史は静かに幕を閉じる。

 四方を向いた三角屋根、尖塔(せんとう)に立つ風見鶏。旧駅舎は、白壁に柱や梁(はり)をむき出しにした「ハーフティンバー」と呼ばれる西欧の建築様式で、1924(大正13)年に完成。1920年に創建された明治神宮の玄関口として利用された。

 当時の時代背景について、鉄道総合技術研究所(東京)の小野田滋担当部長は「郊外や自然を重視する田園都市思想が広がり、西洋の生活様式も庶民に浸透し始めた。牧歌的な外観の木造建築は人々に受け入れられやすかったのでは」と解説する。

 奇跡的なエピソードも残る。旧国鉄が編さんした「原宿駅のしおり」によると、戦時下の45年4月の空襲で約10発の焼夷(しょうい)弾が駅に直撃するも全て不発で焼失を免れた。一帯は焦土と化したが高度経済成長とともに復興を遂げ、64年の東京五輪では駅から徒歩約5分の国立代々木競技場が水泳などの競技会場となり、多くの国民が観戦に訪れた。

 やがて駅近くの車道が「歩行者天国(ホコ天)」として開放され、「竹の子族」や「ローラー族」といった若者が集まった。ファッション店やスイーツ店などがひしめく竹下通りや表参道エリアへのアクセス拠点ともなり、旧駅舎は街のシンボルであり続けた。

 そんな駅舎も老朽化が進み、今年3月、隣に建つ新駅舎にバトンタッチし営業を終えた。防火基準を満たしていないことから解体も決定。JR東日本によると、ステンドグラスなど創建当時から使われている部分もあるという。外観を再現した建物を解体後に建設予定で、旧駅舎の資材も使われる見込みだ。

 原宿で生まれ育った「原宿三丁目町会」会長の篠原東一さん(79)は「一つの時代が終わる感じがする」としんみり。「解体は寂しいが、同じ意匠の建物が残るのはありがたい。長い間お疲れさまでしたと言いたい」と話した。