2021年2月11日
週刊女性PRIME
芸能界のトップに君臨してきたジャニーズ事務所に異変が起きている。
「2019年7月にジャニー喜多川さんが亡くなってから、錦戸亮、中居正広、手越祐也、山下智久と、人気タレントによる退所の流れが止まりません。『少年隊』の錦織一清と植草克秀も昨年末で辞めましたし、今年3月には長瀬智也も辞めることが決まっています」(スポーツ紙記者)
2018年にも3人が辞めた。
「山口達也はスキャンダルが原因でしたが、今井翼と渋谷すばるは“やりたいことがある”と言って退所。かつては“男性アイドル帝国”と呼ばれ、ジャニーズを辞めたら“芸能界で干される”なんて言われていましたが、最近は退所しても活躍の場があると考えているのでしょう」(ワイドショーデスク)
ジャニーズ事務所の歴史は、1962年に始まった。4人組グループの『ジャニーズ』が結成されたのだ。
「最初は野球チームだったんです。ロサンゼルス生まれのジャニーさんは日本のアメリカ大使館に勤務していたそうで、仕事の合間に少年たちを集めて野球を教えていました。それが『ジャニーズ少年野球団』。雨で練習が中止になって見に行ったミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』に感動した4人の少年が、野球よりもミュージカルのほうがカッコいいと感じ、歌って踊れるアイドルを目指しました」(前出・スポーツ紙記者)
1964年にデビューした『ジャニーズ』は、1967年に解散。しかし、1968年にデビューした『フォーリーブス』は大人気となり、1972年には当初は“弟分”だった郷ひろみがデビュー。芸能史に詳しい江戸川大学マス・コミュニケーション学科の西条昇教授に、ジャニー喜多川さんのプロモーション戦略について聞いた。
「基本はミュージカルなんです。ファンを増やすためにアイドルとしてデビューさせ、ミュージカルに客を呼ぶ。1曲1曲が、それぞれ“3分半のミュージカル”と言うべきものでした。デビューしたばかりの郷ひろみは、全盛期のフォーリーブスのコンサートに出演していました。同じ事務所だということがわかり、ジャニーズ=アイドル集団という図式が浸透しました」
ジャニーさんが悔やんだ解散
順調に発展していったが、1975年に衝撃的な“事件”が。
「郷ひろみが『バーニングプロダクション』に電撃移籍したんです。1978年にフォーリーブスが解散し、ジャニーズ事務所は“冬の時代”に。川崎麻世や赤木さとしがデビューしたものの、思ったような人気が出ず、当時は西城秀樹など『新御三家』の絶頂期でした」(芸能プロ幹部)
ジャニー喜多川さんも落ち込むことが多かったという。
「フォーリーブスを解散させたことを悔やんでいました。だから、デビューさせたグループは、なるべく解散させないと、ジャニーさんはよく言ってました。解散さえしなければ、いつか再始動ができる。そうすれば、当時ファンだった女の子たちは結婚して子どもができて、母子で一緒にコンサートに来てくれるようになる、と。今も『少年隊』の名前だけは残しているのは、ジャニーさんが言っていたことを守っているんです」(芸能ジャーナリスト)
脚光を浴びることが減った時期に、ジャニー喜多川さんは地道に基礎を固めていた。
「ジャニーズJr.のレッスンは欠かさず続けていました。その中から生まれたのが“たのきんトリオ”。ジャニーさんがTBSのプロデューサーと話をして、田原俊彦、野村義男、近藤真彦の3人が『3年B組金八先生』に出演することになりました。
ユニットとして売り出すことになり、『金八』が終わると3人のレギュラー番組が始まって大人気になります。1980年には田原が『哀愁でいと』で、近藤が『スニーカーぶる~す』でレコードデビューを果たし、その年の新人賞を総ナメにしました」(前出・西条氏)
「ショー」こそジャニーズ
たのきんトリオは球場でコンサートを行って、多くの観客を動員。バックで踊っていたJr.の中から『シブがき隊』や『少年隊』がデビューし、1980年代の“黄金時代”を迎えていく。
「先輩のバックダンサーから始まって、人気が出たらデビューするという方式は、今も続いています。そのすべてをコントロールしていたのがジャニーさん。彼は“最も多くのコンサートをプロデュースした人物”“最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物”“チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物”としてギネス記録に認定されています」(音楽ライター)
“ショーほど素敵な商売はない”というのがジャニー喜多川さんの口癖だった。
「ジャニーさんは社長なのに、事務所に社長室がありませんでした。かわりに劇場には専用の楽屋がありました。現場にほぼ毎日いて、ダメ出しや修正を指示。普通は公演が始まると演出家は劇場に来ないのですが、ジャニーさんは公演が始まってからも台本を書き換えていました」(前出・西条氏)
ジャニー喜多川さんの背中を見て、タレントたちも成長した。かつてはジャニーさんが演出した『SHOCK』シリーズの座長である堂本光一はこう語っている。
《ジャニーさんは「タレントはタレントが育てる」いう考え方です。先輩のバックで踊ることをはじめ、あらゆる点で。ゆえに、その仕事は僕らタレント全員が受け継いでいくんだという意識を改めて持たなければと思っています》(『日経エンタテインメント』2018年11月号)
ジャニー喜多川さんも自らの哲学をこう語っていた。
《“18歳までに基礎を教えれば育つ”というのがぼくの信念。才能を磨いて輝かせるのがわれわれの仕事です》(『女性自身』1992年8月18日号)
ジャニーズ 託されたタッキー
“ジャニー喜多川イズム”を受け継ぎ、ジャニーズ事務所の将来を託されたのが滝沢秀明だ。
「滝沢さんは2018年9月に『タッキー&翼』での活動を終了し、同年のカウントダウンライブで芸能活動を引退。2019年9月には事務所の副社長に就任して、さまざまなグループのプロデュースを行っています。いろいろな変革も行い、規律を厳しくしたので、若いメンバーには緊張感が広がっています」(前出・スポーツ紙記者)
今年1月には、Jr.に“定年制度”を導入することを発表した。
「原則的にJr.は事務所との合意がなければ22歳で活動停止になります。デビューできずに、ずるずると年をとっていく状況はよくないと考えたようですね。現在のJr.は200人以上の大所帯なので、何らかの対策は必要でした。かつてジャニーさんの“個人事務所”でしたが、今や大卒の新入社員もいる一大企業の株式会社ですから」(前出・ワイドショーデスク)
“滝沢改革”によって、ジャニーズ事務所の新時代が築かれていくはずだ。