2020年2月5日
NEWSポストセブン
草なぎ剛を救ったのは、中学1年時の鍛錬だったのかもしれない──。2月16日の『欽ちゃんのアドリブで笑』(NHK-BSプレミアム)に草なぎ剛が出演する。台本がなく、萩本欽一の振りに出演者がアドリブで応えて、笑いを取っていく番組だ。
草なぎのテレビ初出演は13歳の時、萩本欽一の『欽きらリン530!!』(日本テレビ系)だった。1988年4月の番組開始に向け、萩本は前年からオーディションを開催。のちにCHA-CHAのメンバーとなる勝俣州和や草なぎらを選び、1日何時間も稽古して鍛えた。
1980年代、ジャニーズ事務所のタレントの主戦場は『ザ・ベストテン』(TBS系)や『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)、『歌のトップテン』(日本テレビ系)などの音楽番組だっただけに、バラエティからのデビューは意外である。のちに、萩本はこう語っている。
〈あるとき、ジャニーさんは笑いに目覚めたらしいんだ。「大将、うちにも笑いのセンスがありそうな気がする奴がいるんだ」と言ってきたの。(中略)「だから大将、ちょっと見てくれる?」って、こう頼んでくるんだ。それでジャニーさんが実際に連れてきたのが、のちにSMAPになるメンバー〉(『GetNavi web』2019年9月3日配信)
結果的に、番組出演に至った草なぎは数回だけで去ったが、萩本の求める笑いとジャニー喜多川氏の追求した踊りは相性が良かった。浅草の軽演劇でコメディアンとしての修業を積み、言葉よりも動きで笑いを生むことに主眼を置いていた萩本は1990年代、SMAPがバラエティ番組でも人気を得た理由をこう分析していた。
〈浅草の修業時代、まず最初にやらされたのがダンスだったの。なんでこれが笑いと関係あるのって思ってたけど、ダンスで笑いに必要な間を覚えてたんだよね。(中略)やっぱり20代からじゃ遅いんだよね。小学生からダンスや演技を勉強するジャニーズっていうのは、コメディアンを生み出す最後の集団なのかもしれないよ〉(『SPA!』1998年2月25日号)
『欽きらリン』をキッカケに生まれたグループCHA-CHAの一員だった木野正人はこう語る。
「僕はSMAPのデビュー前に『SMAP』という楽曲の振付をしたことがあります。その時、メンバーの中で剛がいちばん踊りの順応性があると思いました。この曲は、もともとボビー吉野さんが振付をしていました。僕はジャニーさんに頼まれて、Bパターンを作ったんです。普通、いつも習っている先生の振りはすぐ体に入っても、違う人に変わると染み込ませづらい。でも、剛はボビーさんから僕になっても、自然に出来ていました」
SMAPの中でも、草なぎの対応力は頭1つ抜き出ていたようだ。そこに萩本が目を付けた可能性もある。
『欽きらリン』が始まった頃、各局にはゴールデン帯の音楽番組があった。しかし、1988年10月に『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系)が始まると、裏番組の『ザ・ベストテン』の視聴率は20%前後から1ケタに下落。すると、『夜ヒット』や『トップテン』の数字も肩を並べるように落ちていく。結局、1989年9月に『ベストテン』、1990年3月に『トップテン』、同年9月に『夜ヒット』が終了。テレビ界は音楽番組冬の時代を迎える。
1991年9月デビューのSMAPは1枚目のシングルこそ2位につけたが、2枚目は10位に留まった(ともにオリコン最高位)。それまでのジャニーズ事務所のタレントと違い、音楽番組が少ないため、アピールする場が限られていたことも大きかった。しかし、バラエティ路線にも舵を切ると、人気や知名度が上昇。1996年4月からは『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)が始まる。歌だけでなく、トークやコントでも楽しませ、20年8か月も続く長寿番組となった。
ジャニーズ事務所独立後、テレビ出演が激減していた草なぎは、昨年の大晦日に『絶対に笑ってはいけない青春ハイスクール24時!』(日本テレビ系)で村西とおる監督に扮するなどして爆笑を取り、健在ぶりを示した。
このような流れを考えてみると、草なぎが13歳の時期に萩本から笑いの薫陶を受けたことは大きな意味があった。『アドリブで笑』では、32年ぶりに恩師の前でコントを披露する。リズム感のある動きで、欽ちゃんを満足させることができるか。
■文/岡野誠:ライター。著書に『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)。2月8日13時半から大阪ロフトプラスワンウエストで、元CHA-CHA木野正人とトークショー『“職業:男性アイドル”の考察とジャニー喜多川氏の果たした役割』を開催。木野が『SMAP』の振付時に考えた“フォーメーションメモ”も披露。1988年の『少年御三家』公演に関する秘話も。