「ジャニー喜多川」死去1年…堂本光一、山Pらの言葉と”YOU”の秘密

2020年7月12日

デイリー新潮

ジャニーズ事務所は、ディズニーのように

 帝国を作り上げた男が逝き、その崩壊を予想する者は後を絶たなかった。しかし、この1年は、創設者の世界観を守り抜き、後世に残して行くための第1段階のはじまりだったと、『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)の著者、霜田明寛氏は読み解く。ジャニーズ所属タレントの言葉を交えながら、その哲学に迫る。

 ジャニー喜多川が亡くなって、1年が経った。

 2019年、7月。ジャニーズ事務所を創り上げた人物の突然の死に「ジャニーズ事務所崩壊の序章か?」と書き立てるメディアも多くあった。

 だが、結論から言うと、ジャニー喜多川の死去から1年が経っても、ジャニーズ事務所及びジャニーズタレントの力は弱まっていない。

「じゃあ、ジャニー喜多川という人の存在意義はそう大きくなかったのか?」と考える人も多いかもしれないが、そうではない。むしろ、逆である。

 ジャニー喜多川がいなくなっても、ジャニーズがジャニーズとして生き続けている。それが、真にジャニー喜多川の偉大な部分なのである。

 そしてジャニー自身もそれを予言していた。以前「ポストジャニーは?」と聞かれ、こう答えている。

「ジャニーが死んじゃったら、あとはないんじゃないかって言う人がいるの。マネージャーなしで、自分でやれる人間ばっかりなんですよ。まだ、ボクがいるから、遠慮してるとこ、あると思う。ボクいなかったら、それこそ大活躍できるんじゃないかなあ。だから、ボクが知らん顔して消えちゃったとしても、十分できますよ」(AERA 1997年3月24日号)

 真の素晴らしい組織は、創設者がいなくなってもまわるようにできている。

 そしてその“素晴らしさ”は、ことエンターテインメント企業においては「いかに強固な世界観を持っているか」ということと同義なように思える。

 ウォルト・ディズニーが亡くなって半世紀以上が経つが、彼の強固な世界観は、多くのクリエイターたちに引き継がれ、今でもテーマパークや作品の中に“ウォルト・ディズニーの世界”を見ることができる。ウォルトの死後もその世界観は薄まることなく、ブレずに生き続け、むしろ、世界中のテーマパークや、死後に作られた作品によって、人々との接点を増やし、より多くの影響を与え続けている。

 ジャニー喜多川が残したその世界観は唯一無二のものである。ジャニー喜多川作・演出の舞台では「大人は子どもには戻れない」「ジャパン最高!」「戦争反対」といった強いメッセージ性、ライブではパレードのようにトロッコで会場内をまわったり、噴水の中で水着で踊ったりフライングをする少年たち……と、アートとエンターテインメントの融合と形容してもいい強固な世界観が構築されている。そもそもジャニーズ以前には、10代の少年が歌い踊るという文化さえなかったのだ。
きっと、ジャニーズ事務所は、ディズニーのようになっていくのではないか、と思っている。

(ここでは割愛するが、ジャニーズとディズニーは自らのキャラクター/タレントを思うがゆえに、著作権/肖像権に対する意識が高いことも共通している)

ジャニーさんだったらどう考えるかな?

 そして、ジャニー喜多川死去からのこの1年は、その世界観を守り抜き、後世に残していくための第1段階のはじまりのときだった、と言っていいだろう。

 ジャニーが亡くなったことで、タレントたちは“ジャニーズという世界”を守ることに意識的になっていった。

 NEWSの小山慶一郎は、死の翌月にこう語っている。

「ジャニーさんがお亡くなりになって、もう一度、ジャニーズ事務所で活動させて頂いていることに、それぞれが向き合っている」(TOKYOFM『DearFriends』2019.8.30)

 KinKi Kidsの堂本光一も死後半年のタイミングでこう語った。

「僕が常に考えているのは『ジャニーさんだったらどう考えるかな?』ということです」

 それぞれが“ジャニーズ事務所のタレントである自覚”を強くし、自分の中に“ジャニー喜多川の判断基準”を設ける。“ジャニーズタレントであること”とは何なのか。ジャニー喜多川だったらどうするのか。もう本人には聞くことができないからこそ、自分の中のジャニーさんに問いかける。その思考の過程で、それぞれの“ジャニー度”は色濃くなっていく。

 思考するだけではなく、実際に“ジャニー喜多川イズム”を後輩に伝えようという動きも加速している。

 9月、ジャニー喜多川作・構成・演出で上演の準備を進めていた舞台『DREAM BOYS』に、KinKi Kidsの堂本光一が演技指導として参加。その後も、Hey! Say! JUMPのライブの演出を手がけるなど、舞台経験の多い光一は、演出面でも後輩指導に動きはじめた。

 堂本剛は後輩のA.B.C-Zの舞台の楽曲として提供する「You…」、KinKi Kidsのシングル「KANZAIBOYA」と曲を作る形で、ジャニーへの想いを表現している。

 また、山下智久がジャニーズJr.のユニット・美 少年の楽曲をプロデュースしたり、関ジャニ∞の横山裕と大倉忠義が関西ジャニーズJr.の育成をしたりと、それぞれのやり方で“ジャニーズイズム”を伝授。

 大倉忠義や山下智久のような、一時は独立説を囁かれていたタレントたちもこの動きに連なっていることから、喪失によってより、ジャニーズへの想いが強まっていることを感じる。

 山下智久は後輩をサポートする流れについてこう語っている。

「やっぱりみんな好きなんじゃないですか、ジャニーズが。これまで何十年もジャニー(喜多川)さんのやり方や作り方を体で感じながら、自分たちでも表現しながらやってきたわけじゃないですか。それを伝えるべき人がいなくなった今、培ってきた人たちが代わりに伝えていくっていうのは、まぁ…必然だよね。僕らはファミリーだから」(『TVガイドPerson』vol.89)

 タレントという“子どもたち”の意思によって、より世界観を強固にしていくジャニーズ“ファミリー”。

 ただ、ひとつだけ、懸念点が残る。それは“子どもの誕生の瞬間”という“聖域”の部分である。

僕には20年後の顔が見えるんだよ

 ジャニーズタレントになることを夢見て、事務所に大量に届く履歴書を、ジャニー喜多川は全てひとりで目を通し、選んでいたという。オーディションでも同様で、ジャニー自ら、会場で選考をする。

 山下智久はジャニーが「僕には20年後の顔が見えるんだよ」と語っているのを聞いたことがあるといい(TBS『A-studio』2019年4月5日放送)、タレントたちの変化をみるとそれも頷けるのだが、残念ながら“どうやって20年後の顔が見えるのか”というメカニズムの部分はわからないままだ。

 そして、ジャニー喜多川のお家芸のようになっていたのが“急な抜擢”だ。V6の岡田准一、Sexy Zoneのマリウス葉や松島聡がそうだったように、見つけてきて1年以内の少年を急にCDデビューさせたり、ジャニーズJr.内の中心ユニットに抜擢し、大きな舞台に上げる……ということは繰り返しおこなわれてきた。ジャニーズJr.の中では、ジャニーの感性でユニットを作ったり、メンバーを変更したり……ということは日常茶飯事だった。

 ジャニーの死後は、新たにSnow ManとSixTONESという2組がデビューしたものの、彼らはジュニア歴の長い、10年選手が中心のユニット。ジャニーズJr.内でも大きなユニットの改変や、大抜擢はおこなわれていない。ある意味、“ジャニーさんが作ったままいじらずにおいてある”状況で、あえてその“アンタッチャブルな聖域”に触れていないようにも思える。これらを鑑みると、もしかしたらジャニーの感性や、人を見抜くテクニックは、他の誰にも真似できるものではないのではないか、という不安がよぎる。

 ただ、ジャニーが人を選ぶときに発揮していたのは、あながち感性だけではないのかもしれない、と思うエピソードが一周忌を機に、明らかにされている。

ちゃんと名前で呼んでくださいます

 ジャニーといえばタレントのことを「YOU(ユー)」と呼ぶことが広く知られており、それはタレントたちの間では「人の名前を間違えないようにする配慮」という解釈もあれば、「もしかしたら名前を覚えていないのではないか」という説も囁かされていた。どちらにしろ、名前ではなくYOUと呼ぶというエピソードが、“ジャニーが人をどう見ているのか”という大事な部分をよりブラックボックスの中にいれていたのは確かだろう。

 だが、KinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」を手掛けるなど、ジャニーとも親交の深かった山下達郎はこう証言している。

「YOUね、が有名ですけど、我々には絶対そういう言い方はしません。ちゃんと名前で呼んでくださいます」(TOKYO FM『山下達郎のサンデー・ソングブック』2020年7月5日)

 少なくとも、事務所の外の仕事相手には、名前を覚えて、名前で呼んでいたようだ。では、タレントの名前に関してはどうだったのだろうか。

 1980年、元・シブがき隊の薬丸裕英は、履歴書を送ったものの「ひとりで行くのが嫌だ」という友人がオーディションを受ける付き添いとして、ジャニー喜多川に初めて出会う。そこで「YOUもレッスン受けてみない?」と言われ、アイドル人生が始まることになる。結局、その友人はほどなくしてレッスンに来なくなり、デビューすることはできなかったという。(フジテレビ『TOKIOカケル』2020年7月8日)

 そしてそれから約40年のときが経ち、薬丸が長女をジャニーズの舞台につれていき、挨拶をするとジャニー喜多川は、こう長女に告げた。

「YOUのお父さん、タレントとか、なりたくなかったんだよ、本当は。笑っちゃうでしょ。最初、カワサキくんって子がいて、本当はそのコがタレントになりたかったんだよ」

 なんと、ジャニーは、過去にレッスンを受けただけの薬丸の友人の名前を覚えていたのである。もちろん、出会いではあるが、何千、何万といった少年たちを見てきたジャニーの人生からすれば、傍から見れば“すれ違った”と形容してもいいレベルの出会いである。

 後日、驚いた薬丸が東山紀之にそのことを告げると、東山はこう言ったという。

「ジャニーさんって全部覚えているんだよ」

 YOUと複数形にして一括りにしてごまかしているように見えて、本当はそのYOUは単数形で、出会ったひとりひとりのことを記憶している。

 実はジャニー喜多川は、想像を絶する愛情をもって、真摯にひとりひとりの人と向き合ってきたのではないだろうか。

 それは“人を見抜くテクニック”といった軽々しい言葉では呼べないものである。

「20年後が見える」の根底に、出会った人への愛情と真摯さがあるならば、それは彼に愛情を受けた“子どもたち”が引き継いでいけるものなのかもしれない。

霜田明寛
1985年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニヲタ男子」。就活・キャリア関連の著書を執筆後、4作目の著書となった『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)は3刷を突破。また『永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー』の編集長として、映画監督・俳優などにインタビューを行い、エンターテインメントを紹介。SBSラジオ『IPPO』凖レギュラー。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年7月12日 掲載