中居正広の退所会見はSMAP再集結のための“地ならし”なのか

2020年3月24日

日刊ゲンダイDIGITAL

 国民的グループ「嵐」の活動停止、創業社長の逝去、そして相次ぐメンバーの退所と近年激震が続くジャニーズ事務所。それぞれの考えのもと、事務所を去る人、残る人……その“胸の内”を本人の発言から読み解く――。

 ◇  ◇  ◇

「たぶん本人は言われたくないと思うけど、相当考えてると思う」

 中居正広のジャニーズ事務所退所会見を、草磲剛はこう評した(※1)。

 一方、故ジャニー喜多川氏は生前、中居のことをこう語っていた。

「中居君なんか、最初はものすごく二枚目というか真面目でねえ。あそこまでしゃべれる人間でもなかったし、おとなしかった」(※2)

 中居自身もかつては「話すのは正直、苦手分野」(※3)、「こう見えてもパッと言葉が出てくるタチではない」(※4)と語っていた。

 そんな中居を名司会者たらしめたのは“入念な準備”である。「27時間テレビは27時間分覚えてます。紅白も全て覚えてやってましたね」という香取慎吾の言葉【※1】が象徴するように、笑福亭鶴瓶とコンビで司会を務めた2007年の紅白歌合戦では、電話帳ほどの厚さがある台本の内容を頭にいれ、鶴瓶に後ろからお尻を叩いて合図するなどして、全体を引っ張っていた(※5)。

 普段の番組でも、ゲストの資料を頭に叩き込み、綿密なシミュレーションを頭の中で繰り返す。

「事前にちゃんと準備ができないのは、怖い」(※6)、「打ち合わせをしないと不安でしょうがない」(※7)と語る中居が、自身の退所記者会見という一世一代の場において準備をしていなかったはずがないのである。

 では、あらゆる想定をして準備したであろう会見で、中居が隠したかったことは一体何だったのか。それは、昨年7月に報じられた公正取引委員会から注意を受けたジャニーズ事務所の圧力問題とSMAPの不仲説だろう。

 しかし中居は会見の開始前に登場し「(この部分を使う番組があったら)会社の力でねじ伏せる」と聞かれる前に笑いに変えてみせ、不仲説も「なんで知ってるの?」と冗談にも取れる余白のある認め方で乗り切った。SMAP再結成の可能性を「1から99の間にある」と、YESかNOかで答えられない問題をグラデーションでうまく見せる表現も見事だった。

 会場は温かな空気に包まれ、むしろそのような問題を突っ込む記者のほうが、やぼかのような空気が醸成され、ジャニーズ事務所史上に残る円満退所への花道となった。これは、中居正広による綿密に計算されたショーだったといえる。

 しかし、このショーにおいて2つの事象を隠そうとしたのはむしろ、ジャニーズ事務所とSMAPへの愛だったとは言えないだろうか。そもそも「SMAPでだって、リードボーカルやりたい」(※8)と語る中居が、もともと苦手だったしゃべりを磨いたのは「SMAPにとっても大きな武器になる」(※9)と考えたから。出発点は自分のためではなくチームのためなのである。

 そうして磨かれていったトーク力は、“ジャニーズタレント・中居正広最後のショー”を成功に導いた。芸は身を助く。中居自身のみならず事務所やSMAPの元メンバーたちにもプラスになったはずで、むしろこういうときのために中居は話術を磨いてきたのではないかとも思えるほどだ。

 そう考えると、この中居の集大成の会見は、いつかもう一度SMAPとして集まるための地ならしだったのではないか。25年前、森且行のいた時代に中居はこんなことを語っていた。きっとこの信念が根底に生き続けているはずだ。

「何でも6人で一つじゃなきゃ」(※10)

 ※1 AbemaTV「7.2 新しい別の窓」2020年3月1日放送
 ※2「AERA」1997年3月24日号
 ※3「PHPスペシャル」2009年1月号
 ※4「AERA」2013年9月16日号
 ※5 テレビ東京「きらきらアフロTM」2017年3月29日放送
 ※6「月刊ザテレビジョン」2011年8月号
 ※7「ESSE」2014年11月号
 ※8「ESSE」2013年10月号
 ※9「週刊SPA!」2014年7月22・29日合併号
 ※10「コスモポリタン」1995年7月号

▽霜田明寛(しもだ・あきひろ) 1985年、東京都生まれ。早稲田大学卒。WEBマガジン「チェリー」編集長。ジャニーズJrオーディションを受けたこともある「ジャニヲタ男子」。著書に「ジャニーズは努力が9割」(新潮社)などがある。

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