「堂本光一」が演出家として行う、「ジャニー喜多川の夢」の引き継ぎとレクイエム

2020年12月15日

デイリー新潮


正式に「DREAM BOYS」の演出に就任

 ジャニー喜多川作・構成・演出の「DREAM BOYS」。今年もKing & Princeの岸優太と神宮寺勇太らが出演し、幕を開けた。

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 2004年の初演以来、滝沢秀明・亀梨和也などを主演に帝国劇場で上演され続けてきた舞台だが、昨年2019年は、9月の上演を前に、ジャニー喜多川が準備を進める最中に、帰らぬ人に。滝沢秀明がプロデュース面を、堂本光一が演出協力として関わるなどして、完成させた。

 そして今年の「DREAM BOYS」は、堂本光一が正式に演出に就任。約15年のあいだジャニー喜多川が演出してきた舞台が、どう変化したのかを含め、見ていきたい。

 とはいえ、実は堂本光一がジャニー喜多川の舞台を“引き継ぐ”のは、これが初めてではない。

 ジャニー喜多川作・構成・演出の舞台「MILLENNIUM SHOCK」において、2000年に当時21歳で、「帝国劇場史上最年少座長」を務めた光一。

 そこから現在まで公演回数は1700回を超えるが、2005年には自ら進言し、「Endless SHOCK」として演出・脚本などに関わるようになった。

堂本光一演出版「DREAM BOYS」は?

 ジャニー喜多川のことを、堂本光一は「ジャニーさんは、言葉の伝わらない外国の方が観ても楽しめる作品を作るのが好きな人」と評している。(*1)

 ジャニー喜多川の舞台は目にも楽しい。

 たしかに、これまでのジャニーの演出を振り返ってみても、サーカスのようなイリュージョンはもちろんのこと、噴水の中を水着姿で走る少年や、少年たちが家に入っていき、その家が潰れてしまう演出など、アートといってもいい領域である。

 その演出は、言葉による定義が少ない分、観客に解釈が委ねられる部分も大きい。ジャニー喜多川は、美しい顔の少年たちという魅力的なアイコンを媒介にして、高尚な表現をしていたアーティストだったとも言えるだろう。

 堂本光一は自分のことを「結構ジャニーさんに対抗していくタイプの人間でした」、「ジャニーさんにとっては、多分僕は、厄介者だと思うので(笑)」(*1)と語っている。

『SHOCK』のときは光一が変えた演出に、ジャニーが「勝手にすればいいじゃない」と怒って帰ったというエピソードも。舞台の演出面では少し違った視点を持っている2人なのだ。

 関ジャニ∞の村上信五が、ジャニー喜多川版の「SHOCK」に対し「ストーリーはちんぷんかんぷん」と言ったときに、「やってる俺らもちんぷんかんぷん」と応じていたこともあった(*2)。

 実際、今年の堂本光一演出版「DREAM BOYS」は物語としてすっきりとして、わかりやすくなった印象だ。

「おもちゃ箱をひっくり返したような雰囲気」をジャニーは好む、と光一は語る。(*1)

 今回、光一が台本に手を加える作業は、ひっくり返されたおもちゃたちの必要・不必要を吟味し、部屋の中に綺麗に並び替えるようなものだったのかもしれない。

 残って並べられたおもちゃたちは物語を紡ぎ出す。

 そうして、新しい「DREAM BOYS」は、アートに物語という解説文が加えられることによって、より理解されやすい形になっていたのだ。

 もともと、「ファンサービスみたいなのを全くしないタイプの人間」だという光一(*3)。

 これまで設けられていたショータイム(物語とは関係なく、タレントたちがライブのように楽曲を歌い踊る時間)も削られ、2時間で完結するひとつのミュージカルを完成させた。

生まれはジャニーズ、育ちは帝劇

 堂本光一演出の「DREAM BOYS」を見て再確認した。

 堂本光一は、ジャニーズに生まれ、ミュージカルで育ってきた人なのだ、と。

 12歳でジャニーズ事務所入りした光一も、次の正月には42歳を迎える。

 30年の芸能人生のうち、15年を演出する側として過ごしていることになる。

 32歳だった10年前には、「人生の3分の1を帝劇に関わらせていただいて、人格を形成してくれた場所」(*4)とも言っているほど。

 つまり、生まれはジャニーズ、育ちは帝劇。

 2018年には「ナイツ・テイル-騎士物語-」でミュージカル界のプリンス・井上芳雄とタッグを組み、シェイクスピア作品に挑戦。いわゆる“ジャニーズ舞台”ではない、海外の血の入ったミュージカルでも成果を残している。

「SHOCK」での功績が認められ、2008年には作品で、2020年には個人で、演劇界の栄誉と言える菊田一夫演劇賞も受賞している。

 実は堂本光一は、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsとして成功をおさめる一方で、ミュージカル畑を歩み続けてきた唯一無二の人でもあるのだ。

 今年の堂本光一演出の「DREAM BOYS」は自身でも公演前に「よりミュージカルらしくなっていく」(*1)と公言していたほど。宣言通り、ジャニー喜多川オリジナルの世界観に、堂本光一が、アイドルの世界から越境して体得してきたミュージカル成分を注入したものとなっていた。

 生前、ジャニー喜多川はこう言い続けていたという。

「我々にしかできないことをやりなさい」(*3)

 ジャニーの想いを、自分の経験をもとにアレンジし、そして信頼できる後輩である岸優太に体現させる。

 これは、彼らにしかできないことのはずだ。

「ジャニーさんを超えなければならない」

 もちろん、改変を加えたということは、堂本光一がジャニーの想いを無視しているということではない。

 もともとはミュージカルをもとにした映画「ウエストサイド物語」に感銘を受けたジャニー喜多川が、野球チームの少年たちを歌い踊らせたところからジャニーズ事務所が始まったことを考えると、ミュージカル世界を体得した光一の手によって、原点に戻ってきているような印象も受けるし、「文化を継承するには、時代に即して変えるべきところは変えなければならない」(*5)という光一の弁も納得がいく。

 そもそも、存命中から「ジャニーさんの名前を傷つけちゃいけない」というプレッシャーを感じるよう、自分が演出するようになった「SHOCK」にも敢えて、「作・構成・演出:ジャニー喜多川」というクレジットを残し、「(ジャニーさんに)NOと言われるものはやらない」(*2)という志でやってきた光一だ。

 ジャニー喜多川の死後、“恩師”の想いを引き継いでいこうという動きが、多くのジャニーズタレントの中で見られているが、光一は後輩グループであるHey! Say! JUMPのライブを手伝ったり、KinKi Kidsとしてもジャニーを追悼する想いを「KANZAI BOYA」というシングル曲として発売したりするなど特に精力的で、生半可な気持ちでジャニーの作品の演出を担当するはずがない。

 ジャニーの死後には「僕が常に念頭においているのは、『ジャニーさんだったらどう考えるかな?』ということです。(中略)ジャニーさんにはなれないんだから、自分なりに考えてやるしかない」と語っている(*6)。

 そして、こうも言っている。

「ジャニーさんを超えなければならないという思いでやってきた。多分、超えたと思えるようになって初めて『本当にジャニーさんは亡くなっちゃったんだな』って認められる気がするんです」(*5)

 もうすぐ、その死から1年半が経とうとしている。

 今も光一はジャニーの死を認めようと、舞台と向き合い続けているのかもしれない。

(*1)『Stage fan』 Vol.10
(*2)テレビ朝日『関ジャム 完全燃SHOW』2017年2月26日放送
(*3)フジテレビ『連続ドキュメンタリー RIDE ON TIME』2020年3月13日放送
(*4)
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/03/02/kiji/K20110302000347910.html
(*5)『サンデー毎日』2019年12月15日号
(*6)『婦人公論』2020年2月10日号

霜田明寛
1985年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニヲタ男子」。就活・キャリア関連の著書を執筆後、4作目の著書となった『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)は4刷を突破。 また『永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー』の編集長として、映画監督・俳優などにインタビューを行い、エンターテインメントを紹介。SBSラジオ『IPPO』凖レギュラー。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年12月15日 掲載