2020年12月26日
週刊女性PRIME
『デビュー』
いまでは国民的アイドルとして、日本でも海外でも活躍する嵐。彼らのスタートは船の上から始まった!
‘99年9月、アメリカのハワイ州ホノルル沖でデビュー発表会見が行われた。 ハワイで、“スーパーボーイ”たちを取材したカメラマンのAさんは、誰がデビューするかなど、事前情報はいっさいないまま現地に行ったと苦笑する。
「アイドル誌の編集長やスポーツ紙の記者など、20~30人くらいが集まっていました。報道陣の間では、当時ジャニーズJr.の中で人気が高かった、“滝沢秀明さんと山下智久さんの両方か、どちらかがいるのでは?”と話していたんです。私たちはクルーザーに乗って、デビューするメンバーが乗っている船と接近すると誰がいるかわかるという趣向でした。
でも、船に乗っている顔ぶれを見ても誰だかわからなかった。報道陣の間では、“タッキーも、山Pもいないじゃん!”“この人たちがデビューして大丈夫なの?”という声があがっていました(笑)。当時の5人はJr.のファンであれば知っている人も多かったのですが、世間的にはあまり認知されていなかったんですよ」
仲のいいクラスメイトのような
ただ、取材を続けていくうちに、彼らの持っている穏やかな空気感に気づく。
「みんないい子だったという印象ですね。‘97年にデビューして以来、大人気だったKinki Kidsは当時こちらの取材にあまり心を開いてくれず、周りのスタッフもピリピリしていました。嵐は対照的に、変な緊張感がなく、どのマスコミにも愛されていたと思います。彼らとディズニーランドに行くイベントでは、報道陣と一緒に記念写真まで撮ってくれたほど。メンバーのまとまりがよく、毎日顔を合わせているのに、あそこまで仲がいいのはすごいと思いますよ」(Aさん)
“癒やし系”の嵐は、徐々に知名度を広げていった。
「コアなファンよりも、“みんなの嵐”という感じで、親子で好きな人が多かったですね。男性のファンも多かった印象です。ほんわかした雰囲気ながら“グループのために”という熱い思いを持っているので、そこが同性から支持を集めたのでは」(Aさん)
まだウブだった5人を取材した雑誌編集者のBさんは、当時を懐かしむ。
「みんな“俺が俺が”というタイプではなく、ちょっとシャイでした。相葉雅紀さんは当時から優しくて天然。大野智さんはアーティスティックで、人と見る視点が違っていました。二宮和也さんは独特な感性を持っていて、インタビューのなにげない質問に対しても、こちらが驚くような回答をしていたのが印象的です。櫻井翔さんと松本潤さんはよく発言するのですが、自分たちが話していても“相葉ちゃんはどう思う?”など、ほかのメンバーにも話を振っていましたよ」
撮影の合間も5人で話していて、学校で仲のいいクラスメイトのようだったという。
「クラスで目立つポジションにいる男の子たちがワーッと騒ぐ感じではなく、そこまで目立たない男子たちが固まってゆったりと話しているような感じでした。戦隊ヒーローでいえば目立つポジションの赤レンジャーではなく、サポート役の青レンジャーのようなタイプ。みんな自然体で、不機嫌な表情を見せることも、媚びを売ることもありませんでしたね」(Bさん)
そうは言っても、このころから個性の強いメンバーも。
“売れたい”という気持ちが強く
「二宮さんは休憩中によくマンガの話をしていました。特に、水島新司さんの『ドカベン』が大好きで、周りのスタッフやほかのメンバーにおもしろさを熱弁することも。一方、櫻井さんは学校の試験が近いときに参考書を持ち込んで勉強をしたり、ほかのメンバーがマンガを読んでいる中、海外のニュースが載っている雑誌『ニューズウィーク』をチェックしていました」(Bさん)
5人の小食ぶりに驚かされたことも。
「撮影が夕食の時間帯と重なったときにピザを頼んだのですが、みんな育ちざかりなので1人丸ごと1枚くらい必要かと思ったら、マネージャーの方に5人で2枚でいいと言われました。彼らはかなり食が細かったと思います」(Bさん)
昔から仲のよかった嵐だが、5人と接することが多かったライターのCさんは、当初、松本とほかの4人の間に距離を感じていた。
「松本さんは最初から“売れたい”という気持ちが強く、ほかの4人は彼についていけていない印象でした。彼が嫌われていたわけではないのですが、仕事に対する気持ちに温度差があった。そのせいか、松本さんは自分の思い通りにいかず、イライラしていることが多かったです」
松本はどんな仕事にもストイックに取り組んでいた。
「ファンクラブの会報で、ファンからの相談に対して、松本さんが文面で答える企画があったんです。そこまで厳密ではないのですが、回答には文字数の制限がありました。彼は横書きのレポート用紙に書いてきたのですが、よく見ると定規で縦に線を引いて、マスを作ってきちんと文字数に収まるように書いてきたんです。すごく几帳面だなと驚きましたね。仕事に対してもまじめで、私が“こういうことをしたらおもしろいですよね?”と聞くと、“それ、(事務所に)ちゃんと許可取ったんですか?”と確認してきたりして(笑)」(Cさん)
当時から一致団結したときの力強さには目を見張るものがあったようで、
「当時からダンスがきれいにそろっていましたね。でも、『ミュージックステーション』に出演したときは、自分たちの出番が終わると、楽屋に戻ってすぐ録画を見てダメ出しをし合っていました。先導していたのは松本さんでしたね。彼は一番派手に見えますが、いまでもコンサートの演出をしていますし、実は陰で誰よりも地味なことをしているんです」(Cさん)
芸能ジャーナリストの佐々木博之氏は、“変わらなさ”が長年愛されてきた秘訣だと指摘する。
「売れてからもデビュー前と変わらず、報道陣やファンにきちんと対応していました。デビューしてちやほやされて図に乗ってしまうタレントもいますが、嵐はそういうことはなかった。事務所が礼儀やマナーを厳しく指導していたのかもしれません。彼らが仕事先の人たちから愛されるのは、そういう人間性が知られているからだと思います」
ちょっぴりシャイでほのぼのとした5人は、スターへの階段を駆け上がっていった――。
『ピカンチ』
’99年にデビューした嵐は、’02年に公開された映画『ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY』で、主演を務めることになった。
デビューから3年がたち、“スーパーボーイ”たちの仕事は軌道に乗り始めていた。
深夜番組を経て、「5人」が揃った映画デビュー
「’01年には日テレ系で初のレギュラー番組『真夜中の嵐』、’02年には深夜番組で『Cの嵐』の放送が始まりました。どちらも深夜番組でしたが、5人が不慣れながらも一生懸命に企画に挑戦する姿が好評でしたよ」(スポーツ紙記者)
’02年は、彼らが大チャンスをつかんだ年だった。
「彼らが演じたのは、東京・品川の八塩団地で暮らす高校生5人組。家庭や学校生活、恋愛模様を描いた青春物語です。主人公の相葉雅紀さんは平凡な青年、二宮和也さんは無口だけど仲間思いの情熱家、松本潤さんは少し天然なお金持ち、櫻井翔さんはバイクを乗り回し、タバコを吸う不良、大野智さんはかわいいけど運の悪い男を演じました」(映画ライター)
松本と相葉はジャニーズJr.時代に映画の出演経験があったが、ほかの3人は『ピカ☆ンチ』が初挑戦だった。
「全員で映画に出ることは5人の願いでした。当時ジャニーズ事務所が買い取ったばかりの『東京グローブ座』で公開されました。収容人数は500人ほどの小さな映画館でしたが、連日満員になりましたね」(芸能プロ関係者)
映画の脚本を担当した河原雅彦氏は、若くて初々しかった5人を懐かしむ。
「’02年に大野さんが出演した舞台『青木さん家の奥さん』で僕が演出を担当した縁もあって、ジャニーズ事務所から脚本のオファーがきました。5人の撮影は比較的制約も少なく、自由な雰囲気でした。コンプライアンスなども今より厳しくなかったので、嵐のメンバーが横並びで屋形船に向かってお尻を出してペンペン叩くなんていうこともやれました(笑)」
メンバー同士の仲もよく、結束の固さが映画の仕上がりにも反映されたようだ。
「映画はいい意味で最初のイメージとは違っていました。想像以上に個々の人柄が役に色濃く反映されていて、グループの空気感が非常によかった印象です。単なるアイドル映画に終わらず、良質な青春映画になっていました。彼らも楽しみながら撮影に臨んでいる印象で、作り手側も遊び心がありましたね。5人とも変に身構えないナチュラルな雰囲気がありました。若いころに知り合ったということもあって、いまでも会えばすごく癒してくれる存在です」(河原氏、以下同)
『ピカ☆ンチ』はその後、’04年に『ピカ★★ンチ LIFE IS HARDだからHAPPY』、’14年に『ピカ☆★☆ンチ LIFE IS HARDたぶんHAPPY』と2作の続編が製作された。
「普通なら青春映画を同じメンバーでシリーズ化するのは難しいのですが、嵐だからできたことなのかもしれません。見る側も、成長した彼らの変わらない空気感を見たいんですよ。年齢を重ねて国民的グループになっても、揺るぎないグループの核があります」
ブレイク前でも売れそうな空気が
一緒に仕事をしていくうちに、5人と少しずつ打ち解けていったという。
「撮影現場で彼らと話しましたが、話題は近況や世間話ばかり。僕の中では、嵐のメンバーに会うのは親戚と会う感覚に近いかもしれません。撮影中でも、誰ひとりとしてナーバスになっていませんでした。終始、和気あいあいとしていて、スタッフから声がかかっても“じゃ、行ってきまーす”みたいな軽い感じ」
しかし、彼らにはほかのグループとは違う何かがあった。
「まだこれからという時期でしたが、売れそうな空気は十分ありました。監督の堤幸彦さんたちと、“嵐ってすごいブレイクするんじゃない?”と話していましたから。グループとしての品のよさや唯一無二の空気感があったんです。そういうのは作ろうと思ってできることではありません。きっと、神様がくれたギフトなんでしょうね」
照明を担当した石田健司さんも、嵐の“特別感”に気がついていた。
「撮影の合間に二宮さんが相葉さんに “休みの日、何してるの?”と聞くと、相葉さんが“僕、ボーッとしている”と答えたのを覚えています。撮影はハードで、朝の8~9時に始まって、終わりが明け方になるなど、20時間近く続くことも。5人も大変だったはずなのに、相葉さんが“休みの日はボーッとしてる”なんてほんわかした話をしているのを聞くと、すごく癒されたんですよ」
当時から5人それぞれに個性があったという。
「二宮さんと櫻井さんはしっかりしていて、相葉さんは天然なところがあった。大野さんは、物静かな印象。松本さんはドラマの出演経験があったからか、ほかの4人を引っ張っている感じでしたね」(石田さん)
Jr.時代の下積みが長かった彼らにとって、ハードな仕事は普通だったのだろう。
「“スタッフが自分たちのために動いてくれている”という意識を持っていたのかもしれません。きつい現場でしたが、いつも冗談が飛び交う和やかな雰囲気でした。青春映画ですし、短期間のスケジュールだったので5人で突っ走ろうという思いだったのではないでしょうか」(石田さん)
メンバー全員で出演した映画は大成功に終わる。この勢いのまま順調に国民的アイドルへの階段を駆け上がっていった……わけではなかった。強力な“ライバル”が現れ、5人の“弱点”が浮き彫りになったことで、不遇時代を味わうことになったのだった─。
『冬の時代』
’02年から数年間は“冬の時代”に直面した。
「’02年の12月末にテレビ朝日系の『ミュージックステーションスーパーライブ』に出演した際、嵐の出番はオープニングで、時間は2分もなかったんです。歌番組の視聴率は後半になるにつれて上がっていくので、トップバッターはあまりいいポジションとは言えないんですよ」(レコード会社関係者)
この時期は、CDの売り上げも伸び悩んでいた。
「’03年の『とまどいながら』や『ハダシの未来』はオリコンランキングで1位をとれず、’04年の『PIKA★★NCHI DOUBLE』は14万枚と嵐で最も売れなかったシングルに。状況を打開するため、’03年には、さいたまスーパーアリーナで販売促進のために握手会を開催しました。デビュー直後のグループがやることはあっても、デビューして4年もたってからやるのは異例でしたよ」(同・レコード会社関係者)
逆風が吹き始めていた5人に追い打ちをかけるように、強力な“ライバル”も現れた。嵐の7年後にデビューしたKAT-TUNだ。当時は、現メンバーの亀梨和也、中丸雄一、上田竜也に加えて、元メンバーの赤西仁、田中聖、田口淳之介もいる6人で、とにかく勢いがあった。
「和やかな雰囲気の嵐とは対照的に、ブラック&ワイルドをコンセプトにした“ギラギラした不良”を全面に出していてインパクトがありました。デビュー前にもかかわらず、’05年に亀梨さんと赤西さんが出演した日テレ系のドラマ『ごくせん 第2シリーズ』は全話の視聴率が25%を超えました。’06年のデビューシングル『Real Face』は104万枚を売り上げミリオンを達成。一躍、大ブレイクを果たしましたね」(テレビ局関係者)
後輩の圧倒的な勢いに押され、先にデビューした嵐のほうが“ギリギリ”になっていた。そんな状況に、焦りを見せるメンバーもいて……。
「松本潤さんは、赤西さんをかなり敵視していました。プロ意識の高い彼は当時、少々いい加減な雰囲気を漂わせていた赤西さんをよく思わなかったのでしょう。ある番組で共演した際、本番前にエレベーターで2人が一緒になったときに、挨拶をした赤西さんを松本さんはにらみつけたそうですからね」(同・テレビ局関係者)
嵐のブレイクを遅らせたのは、5人の“ある弱点”も原因だった。
「音楽業界では、デビュー間もないころの嵐は“やる気がない”と言われていました。ジャニーズJr.からすぐにデビューしたので、下積み時代が短かったんです。あまり苦労していなかったので、“絶対に売れてやる!”というハングリー精神に欠けていたんですよ」(芸能プロ関係者)
和やか雰囲気が裏目にでることも
もともとの彼らの気質も関係していたのかもしれない。
「みんなほのぼのしていて、自分から前に出るタイプではありませんでした。そんな和やかな雰囲気がファンからも愛されていたのですが、芸能界で生き残るうえでは、それが裏目に出てしまうこともあったんです」(同・芸能プロ関係者)
積極性を見せないことで、スタッフからの評価が低くなってしまったことも。
「歌番組ではMCが話を振りやすくするために、事前にアンケートを書いてもらいます。まだ売れていないアイドルはびっしりエピソードを書くもの。大野さんは長文で記入していたそうですが、ほかの4人は当たり障りのない回答ばかりだったといいます。深みのないエピソードばかりでは目立ちませんよね」(同・芸能プロ関係者)
なかなか日の目を見なかった彼らにもチャンスが訪れる。’04年の『24時間テレビ』(日テレ系)で、初めてのメインパーソナリティーに抜擢されたのだ。
当時、同番組の総合演出を担当し、現在は京都芸術大学で客員教授を務める村上和彦氏に話を聞いた。
「前の年はTOKIOがメインだったので、’04年はフレッシュ感を出そうということになりました。ただ、当時の5人の知名度を心配する声もあったので、スペシャルサポーターとして東山紀之さんをつけるようお願いしたんです。メインは嵐ですが、脇にいわば重鎮がいるスタイルにしました」
大役が決まったことを5人に伝えた際のメンバーの反応が印象に残っているという。
「みんなすごく喜んでいました。ただ、東山さんをサポートにつけることを伝えると、頭のいい櫻井翔さんは“僕たちだけではダメなんですか?”と真剣な顔で聞いてきましたね。“ベテランの人がいたほうが、君たちも安心できるから”とフォローしましたが、彼は見抜いていたと思います」(村上氏、以下同)
それでも、5人は全力で番組に取り組んだ。
「大野智さんは耳の聞こえない少年とダンスをし、櫻井さんは目の見えない女の子とピアノを弾くなど、子どもたちと一緒に練習をして本番は武道館で演奏するという企画がメインでした。カメラを入れたロケは3~4回でしたが、5人はそれ以外の日も時間を見つけて足を運び、練習を重ねていたそうです」
エンディングでは、相葉雅紀がメンバーに向けて、“トップになる夢を叶えよう”という手紙を読み上げた。
「ほかのメンバーには内緒にしたサプライズ企画でした。台本でも、“故郷のおじいちゃん、おばあちゃんが孫たちに感謝する”という内容をやることにしていました。“謎のVTR”とすると、勘のいい櫻井さんに気づかれる可能性がありましたからね(笑)。相葉さんは涙を流していて、ほかのメンバーも必死に涙をこらえていましたよ」
相葉の手紙で、夢を再確認した5人。ここから、彼らはそれぞれの得意分野で才能を開花させ、世の中に“嵐”を巻き起こしていくのだった──。